5.「秘密」、あるいは論理の魔



 本好きの方からは「何をいまさら」と言われてしまいそうですが、最近になって東野圭吾さんの「秘密」を読了し、多くの方と同様、ラスト2ページに涙してしまいました。
 ストーリーを紹介したいところですが、無理ですね、この小説は。
 この本をミステリ部門で昨年のベスト1に挙げた「本の雑誌」でも「読み終えると人に話したいのに、未読の人には話せないのがなんとも残念」などと書かれていましたが、わかります、その気持ち。
 別にいわゆる本格ミステリではないし、トリックや謎解きもないので、ストーリーを紹介すること自体はそれほど問題はないと思うのですが、物語を紹介することに意味がないのです。
 たとえば、大きな伏線はあるのですが、誰でも気づく、と言うより、作者自体が伏線を隠そうとしていないのですね。それじゃ伏線じゃないじゃないかといわれそうですが、読み手は伏線だと意識しているのにやはりそこで心を震わせてしまう。そういうタイプの伏線ですね、あれは。この技法は小説自体に相当自信がないとできないことです。

 しかし何より、ストーリーを紹介できない最も大きな理由は、それを聞いたら読者が減ってしまうんじゃないかと思うのです。
 ちょっと試してみましょう。
「悲惨な事故で妻を亡くし、娘が重傷を負った。ところが意識が回復した娘には、死んだ妻の意識が乗り移っていたのだ。戸惑う主人公。かくして奇妙な「夫婦生活」が始まる」。
 どうです。
 「なんだ、SFか。苦手なんだよそういうの。現実味なくてさ」と思った方はいませんか。
 そこなんです。
 どうしてこの日本と言う国では、かくも「SF」が受け入れられないのでしょう。
 前述のような拒否反応に対してはこういう反論も見られました。
「いや『秘密』はSFじゃないんだよ。そう言う特異な設定なんだけれども、夫婦の愛のあり方と言うか、愛するがゆえに絶望的な行き違いに陥っていく、そういうきわめて現実的な夫婦の問題を展開している小説なんだ」と。
 だから、なんでわざわざ「SFじゃない」と言わなければならないのでしょう。いいじゃないですが設定がSFだって、それが良い小説なら。
 SFイコール非現実的。
 イコール絵空事で読んでも意味がない。

 もうそろそろやめましょうよ、そういうパターン化された反応は。大体小説なんてみんな絵空事なんだから、読んでも意味がないってことになっちゃうでしょ(実際、そう言う理由でノンフィクションやビジネス書しか読まない人がいるらしい。それはそれでものすごい考え方だと思う)。
 直木賞なんかその典型で、「秘密」も候補に挙がったのにほとんど無視されちゃいましたね。私なんか、現実的かどうかで言えば、よっぽど桐野夏生のほうが頭の中だけで書いた小説って感じがするんですけど。
 もっとも、文章がイマイチとかそう言う批判もあったのでしょうが、直木賞の場合、それを言っちゃあお終いでしょう。「だった、だった」の連続で2ページしか読み進められなかった乃波アサとか、「重厚な」というより「単なる悪文」の高村薫とか、そう言う人達は文章技術より内容で勝負したわけでしょうから。
 まあ直木賞のSF嫌いについては、筒井康隆さんが恨みを込めてこれまで散々言っていますからあまり触れませんが、それにしても故・広瀬正さん(「マイナス・ゼロ」)には直木賞をあげるべきでした。これだけ時が経っても読み継がれている娯楽小説って少ないですよ。

 さてこんなことを言っておりますと、「そんなことねーだろ、『リング』とか『パラサイト・イヴ』とかSF花盛りじゃないか」と言われそうですが、そこがまた私の癇に障るところなんですね。
 だって、そういうベストセラーのコピーはすべて「ホラー」じゃないですか。
 『リング』はともかく、『らせん』『ループ』のどこがホラーなんだ!。『ループ』なんて××系SFの王道を行っているじゃないか!
 などと思わず叫びたくなってしまいます。
 やっぱりここにも事情がありまして、某出版社の編集者によりますと、早い話、「SF」じゃ売れない、と言うことだそうです。
 長い間食うや食わずで大変だった『リング』の著者なんて、SFっていうレッテルを貼られると本が売れなくなるってんでSFと呼ばせないようにかなり気を遣っているとか。(余談ですが、それにしても「噂の真相」で『リング』に噛み付いていた大槻教授、SF小説にまでケチつけなくてもいいんじゃない?)
 ホラーとSFの違いは何か?
 ホラーは理屈じゃないけど、SFは論理や思考の実験なんです。センス・オブ・ワンダーってやつ。

 今、小学校から大学に至るまでの科学教育が取り沙汰されていますね。分数ができない大学生とか。
 私も文系人間で偉そうなことは言えませんが、こんなに理系を毛嫌いする国民性と言うのもちょっと珍しいのではないかと思うのです。
「数学なんて勉強したって何の役にも立たない」なんて大の大人が平気な顔して言う社会はやっぱり教育システムに欠陥があったと考えざるを得ないでしょう。
 数学や科学を勉強すると言うのは、何も微分積分の公式を暗記することに意味があるわけじゃなくて、論理だてて物事を考える思考を養うということくらい、大学進学率が50パーセント超えた国でコンセンサスを得ていて当たり前だと思うのですが。
 論理的な思考を嫌うから、感情に流された思考が主流を占めてしまう。
 国旗や国歌を法律で強制することが論理的帰結として何をもたらすのか。
 通信の秘密が保証された国で、電話やメールの傍受を法律で認めるということはどういうことなのか。
「国を守る」という言葉の持つ厳然たる意味は何なのか。

 硬直した思考は要りません。
 SFでも読んで、しなやかな論理と遊んでみましょうよ。