「越境者」の道

〜現代日本の法と国家・水俣病研究三十年をふりかえって〜

ただいまご紹介に預かりました法学部の富樫でございます。いよいよ最終講義をする時期になりまして、これが同時に熊本大学のみなさんに対するお別れの言葉にもなろうかと思います。
 さきほどの清正学部長の紹介にもありますように、私は一九六二年十一月に熊本大学法文学部講師の辞令をいただき、翌年の一九六三年四月に着任しましたので、それから満三十六年在職したことになります。当初はこんなに長く熊本で働くつもりではなかったんですけれども、熊本に参りまして六年ほど経った頃に、水俣病事件とある意味で運命的な出会いがございまして、そのためにとうとう停年までここで働かせていただくことになったわけです。
 熊大生活三十六年のうち約三十年は主として水俣病事件の調査研究に従事してきましたので、ここでの生活の大部分は水俣病との付き合いであったといってもいい過ぎではないと思います。そういうわけで、最終講義のテーマも「現代日本の法と国家―水俣病研究三十年をふりかえってー」というふうにいたした次第です。
 
 
 水俣病事件と多彩な裁判
 ご承知のように、水俣病事件については、中学・高校の教育においても一応教えられておりますし、また新聞やテレビを通してたえず報道もされてきました。その意味では、非常に知名度の高い事件だといえると思います。しかしながら、この事件の実態や真実ということになると、意外に知られていないように思われます。これが水俣病と長く関わってきた私の率直な印象です。熊大の学生たちも同様でして、中学や高校で習った程度の知識しか持ち合わせていないというのが実情です。よく教科書などでは、水俣病事件は四大公害事件の一つであり、戦後日本の公害を代表する事件であるという教え方をしております。しかし、私がみてきた水俣病事件は、そのような教科書的な枠組みではとてもとらえ切れない、もっと根の深い事件であると考えております。
 水俣病事件は富山のイタイイタイ病や四日市の公害病などと並べて扱われていますが、そうした公害事件のなかで水俣病事件は非常に違った性格と経過をもっております。私の専門である裁判に関連して申し上げますと、一つの事件でこれほどたくさんの、しかも多彩な内容をもった裁判が提起された例は、この事件以外にはないわけであります。新潟の水俣病、あるいは富山、四日市の事件を見ましても、裁判は一回ないしはせいぜい二回程度、それも損害賠償請求の裁判しか提起されていないんです。それに対して、水俣病事件は、損害賠償請求訴訟のほかに行政訴訟や刑事訴訟、あるいは仮処分事件と、じつに多様で内容の豊かな裁判が次から次と提起されてきました。
 先日、水俣病患者運動のリーダーの一人である川本輝夫さんが六十七才の生涯を閉じました。私も葬儀に参列してきたばかりですが、この人は、法律の素人ではございますけれども、水俣病患者の権利を実現するために、あるいはその深い思いを表現するためにいま何が必要かということについて大変鋭い感覚をもった人でありまして、われわれ法律家が思いつかないようなことを考え出しては、ぜひ裁判にしたいということを次から次と提起された方でもあるわけです。さきほど申し上げましたような多彩な水俣病裁判というのは、川本輝夫という一人の患者を抜きにしては到底あり得なかっただろうと私は思っております。
 
 
 法と国家のあり方を問う裁判
 ところで、そうした多彩な水俣病裁判が提起され、それらを通していったい何が明らかになったのか、それがじつは今日みなさんにお話したいと思っている内容であります。
 私は、たくさんの水俣病裁判を通して、現代日本の法の限界が明らかになり、そしてその延長線上で私たちの国家は何をしてきたのか、本来、国家はどうあるべきなのかということを問いかけ、あるいは暴き出した、そういう意味をもっていると思うんです。
 水俣病裁判を通して提起された問題はたくさんあります。そもそも公害事件において加害企業の過失をどう考えるべきなのか。これは水俣病第一次訴訟が提起した大変重要な問題であります。また、水俣病に関する国家賠償訴訟においては、法の欠缺、欠缺というのは最近あまり使われない法律用語ですが、欠如という意味ですね。たとえば、水俣湾内で獲れる有毒化した魚を食品として流通させないために漁獲を禁止したいという場合に適当な法律がない。あるいはチッソの水俣工場から流される有毒な排水を止める法律がない。そういう状況を法の欠缺といいます。そういう場合に、国はどうすべきなのか、具体的には厚生省や通産省の担当者はどうすべきなのか。規制する法律がない以上、被害が拡大するのをただ見守るしかないのか。そういう問題も水俣の裁判は提起しているわけであります。
 食品衛生法という法律はみなさんもご存知だろうと思います。毎年のように食中毒事件が発生し、最近ではO−157という食中毒事件が各地で発生しまして、大きな注目の的になっています。そのような場合に食品衛生法が適用されまして、被害の拡大を防止するための処置をとります。後で少しくわしくお話しますけれども、水俣湾の魚が有毒化して非常に危険な状態になり、その魚を食べれば、ほぼ確実に水俣病にかかるという深刻な状況が出ておりました。そうした状況のなかで食品衛生法の適用が非常に大きな問題になったわけであります。ところが、食品衛生法という法律は、水俣病のような公害を取り締まるための法律ではない、したがって水俣湾の魚が有毒化し、それを食べた人間が発症する可能性が高まっても、食品衛生法を適用することはできないという議論があるわけです。そうなると、食品衛生法の存在理由はいったいどこにあるのか、そういう問題が提起されてくるわけであります。
 さきほどお話した川本輝夫さんは、もともと未認定患者でありまして、認定申請棄却処分に対する行政不服審査請求という闘いを通してようやく認定された患者の一人であります。この川本さんは、チッソ東京本社を舞台に長期にわたる自主交渉闘争をやった人でもあります。その闘争の過程でチッソの従業員と川本さんらが再々もみあいになる場面がありまして、手で引っ掻かれたとか、足で蹴られたといった事件が毎日のように発生しました。そのためリーダーである川本さんが暴行傷害罪容疑で東京地裁に起訴されるという事態になりまして、これが自主交渉川本事件と呼ばれる事件であります。この裁判も、日本の刑事司法に対して非常に大きな問題を提起した事件です。といいますのは、この裁判では、検察官がチッソの犯罪に目をつぶりながら、ひとりの水俣病患者の行為を問題にして起訴したこと自体が差別的起訴であり違法ではないかということが法廷で激しく争われたからであります。第二審である東京高裁は、検察官が川本さんを起訴したこと自体が訴追裁量の逸脱であり、公訴は棄却されねばならないという判決をしました。検察側がすぐ上告しまして、最高裁ではまた違ったニュアンスの決定が出たわけですけれども、公訴棄却の結果は変わらず、川本さんは起訴以前の状態に戻ったことになります。無罪放免ではなく、起訴そのものが違法ということが確定したわけであります。日本の近代刑事裁判史上、公訴棄却がこれほど大きな論争になったのは、これが最初です。そういう意味で、この事件は日本の刑事裁判史に大きな足跡を残したといえるでしょう。
 これ以外の裁判をとってみても、水俣病事件は、まさに現代の法や法解釈の限界を問い直すような問題を次から次と提起したという意味で、非常にユニークな経過をたどった事件だというふうに考えているわけであります。医学部の原田正純先生は、医学研究の面からみても水俣病は宝の山だということを再三述べておられます。同様に、法律学者にとりましても水俣病事件というのは、まさに宝の山であるといえると思うんです。今日は、そのすべてについてお話する時間がございませんので、三つの問題に絞りまして、どういう問題が提起されたのか、また、それを通して法の限界や国家のありようがどのように明らかになってきたのか、ということをお話してみたいと思います。
 
 
 企業の予見可能性と安全確保義務
 最初にお話したいのは、公害企業の過失をどうとらえるべきかという問題であります。他人に違法な損害を与えた者は損害賠償しなければならないということは、みなさんもよくご存知だろうと思います。これには、二つの大きな考え方があります。一つの考え方は、結果責任という考え方であります。近代以前の社会におきましては、この結果責任が原則であったというふうにいわれているわけであります。加害者に過失があったかどうかと関係なしに他人に違法な損害を与えた者は、その結果について責任を負わねばならない、つまりつねに損害賠償の責任を負わなければならないというのが結果責任であります。これはある意味では無限責任なんですね。責任の限度というものが定められていない責任でありまして、芋づる式にどこまでも責任を追及されかねないという、そういう考え方が結果責任であります。古代以来ずっと人間社会においては結果責任がむしろ主流であったといわれております。それが近代法において大きく転換されたわけです。
 新たに出てきた原則が過失責任の原則という考え方であります。もちろん、明治以降日本に導入された近代法も過失責任の原則に立っております。具体的には、民法七〇九条という不法行為に関する原則的な規定をみますと、そこには明確に過失責任の原則が定められているわけであります。問題は、近代社会あるいは近代法において、なぜ過失責任という原則が必要と考えられたかということであります。この点について、マックス・ウェーバーという社会科学者がきわめて的確な指摘をしています。それは、近代社会における企業の活動は、合理的な経営という理念に立脚している。その合理的経営の一つの重要な特徴として予測可能性ということを、ウェーバーは強調しているわけです。予測可能性(Berechenbarkeit)、これが近代的経営のもっとも重要な特徴であるというわけです。予測可能性とは、計算可能性といい換えてもよいと思います。近代社会においては、ある者が資本を投下して事業を始めた場合に、その結果として、どれだけの利益が生じるか、それをまた新たな資本として投下した場合にさらにどれだけの利益が生み出されるかが計算可能あるいは予測可能でなければ合理的経営は成り立たないということをウェーバーは指摘しているわけであります。そして、それを法的に保障するものがまさに過失責任の原則なんです。
 このように、過失責任の原則というのは、事業活動の予測可能性と密接不可分の関係にある、そういう原則であります。さきほど近代以前の結果責任というのは、一種の無限責任であるということを申し上げました。事業者はいつ突然に損害賠償請求されるか分からない。しかも、いったん損害賠償請求された場合に、いったいどこまで賠償を請求されるか分からない。これはあなたが引き起こした結果だから、これについてはあなたが全責任を負わなければならならないと。これでは予測不可能ですね。こういう結果責任の考え方は、近代の合理的な経営とは相容れないわけであります。
 これに対して、過失責任の原則というのは、事業者が相当な注意さえ払っておけば多分損害を発生させることはないだろうし、たとえ損害が発生したとしても、それは不可抗力であって損害賠償の責任を負う必要はないという考え方です。自分が必要な注意を怠って他人に損害を加えた場合にのみ相当な範囲内で賠償責任を負えばよいというのが近代法の考え方ですから、これなら十分予測可能なんです。
 ところで、水俣病のような事件が発生し、たくさんの人が死んだり、重い健康障害に苦しめられるという事件が発生した場合にも、近代法の原則である過失責任が問題になるわけであります。事実、一九六九年六月に提起された水俣病第一次訴訟においては、水俣病についてチッソの過失を問うことができるのかどうかが最大の争点になりました。これは法的には大変難しい問題です。なぜ難しいかといいますと、それまでの法理論、通説の法解釈によりますと、なかなかチッソの過失責任を問うことができないんですね。それまでの一般的な理解によれば、チッソに予見可能性がなければ過失がないという考え方をしてきたからであります。
 チッソは水俣工場でいろんな化学製品を製造していました。その過程で、工場排水から水俣病のような損害を発生させるということが、まえもって予測可能であれば、その結果に責任を負わなければならない。ところが、原田先生がしばしばいわれるように、水俣病は人類が初めて経験した有機水銀中毒事件であり、「水俣病のまえに水俣病はない。」それはその通りなんですけれども、それをそのまま過失論にもってきますと、大変困った事態になるんです。つまり、チッソは水俣病が発生してはじめて水俣病のことを知ったわけで、工場排水が原因となって水俣病が発生するということは、被害がどんどん拡大してからはじめて分かったことですから、厳密な意味では、チッソはそれを予見できなかったわけです。そうすると、「水俣病のまえに水俣病はない」以上、チッソの過失責任を問うことは難しい、そういう結論にならざるを得ないわけですね。
 水俣病が多発していることが公式に確認されたのは一九五六年五月のことです。それから一九六〇年ぐらいまでが最も汚染がひどく、急性劇症型といわれる非常に重篤な患者がたくさん発生した時期なんです。その間、チッソは年々生産設備を拡張して膨大な利益を上げていた時期でもあります。チッソのいう水俣病騒動が見舞金契約の締結をもって収束した直後の一九六〇年一月に、当時の工場長が年頭の挨拶でこういっております。過ぐる一年を振り返りながら、漁民騒動が二回も起こり、工場正門前で患者・家族が座り込みをするなど、水俣工場にとってじつに大変な一年であったけれども、それにもかかわらず予定通り生産を拡大し、ここ数年にない大きな利益を上げることができたことをよろこんでいると。
 こういう事実をまえにしますと、事業活動から膨大な被害を出しながらチッソに過失責任がないとして無罪放免していいのかという問題が発生してくるわけであります。われわれの常識、われわれのモラル感覚からすれば、これはとうてい容認できないことであります。しかし、当時の通説の考え方からすれば、チッソの過失責任は問えないということにならざるをえないわけです。そういう問題を第一次訴訟は提起していたわけであります。当時、私は一人の法律学者としてこの問題に直面しまして、なんとかこの困難な問題を突破できないかと苦しい思考を重ねていました。ここでは詳細については申し上げませんけれども、そのころ、私に重要な示唆を与えてくれたのは、武谷三男博士という著名な原子物理学者が提唱された「安全性の考え方」というものでした。大気中の原水爆実験を許容すべきかどうかとう問題を考えるためには、まず安全性を最優先に考えなければならないというのが武谷理論の核心なんです。それにヒントを得て、私は安全性の視点から過失論を根本的に再構築する必要があるのではないかというように考えたわけであります。
 チッソの水俣工場は、かなり規模の大きな有機合成化学工場でありまして、そこでは非常に危険な原料やプロセスを使いながら化学製品を製造していた工場であります。しかも周辺には住宅が密集しております。そういう環境で危険な製造工程を使って操業している以上、工場排水によって付近住民に危害を加えないということ、これは絶対必要なことであります。そしてチッソには、そうすべき高度な注意義務が課せられていると考えざるを得ないわけです。それをわれわれは「安全確保義務」と定義しまして、この安全確保義務こそがチッソに過失があるかどうかを判断する核になる概念であると考えたわけです。そして、安全確保義務の中身は、当時アメリカの大学の工学部で教科書として使われていたガーンハムの産業廃水処理の理論を参考にしてそれを具体化していったわけであります。
 こういう新しいパラダイムに照らして、チッソが水俣工場で長年やってきたことをみますと、一つとして安全確保義務を果たしていないということが分かります。まず、化学工場の排水が危険であることは常識であると思いますが、チッソはその排水の分析さえやっていなかったわけです。分析する能力がなかったかというと、そんなことはない。当時、水俣工場は日本でもトップレベルの優秀な化学技術者をたくさんかかえていました。しかも、チッソは、大学ではなかなか買えないような最先端の分析機器をいち早く設備して高度な分析を行っていた企業ですから、排水の分析ぐらいできないわけはない。そもそもやろうとしなかったんですね。そうして、きわめて危険な排水を無処理のまま水俣湾に流しつづけていたわけであります。これは明らかな安全確保義務違反といわざるを得ないのでありまして、すでにその点で過失の責任は免れないというのが私どもの考えであります。幸い、この理論は熊本地裁の判決にも採用されまして、第一次訴訟の裁判で患者側がようやく勝訴することができたわけであります。
 
 
 疫学的原因論と食品衛生法の適用
 二つ目の問題として、食品衛生法の問題を考えてみたいと思います。水俣病事件で食品衛生法の適用が問題になりましたのは、一九五七年三月から九月までの時期ですが、それには次のような背景があります。水俣病の発生が公式に確認されたのは一九五六年五月で、その年の八月から熊本大学医学部の研究班が総力を挙げて原因究明に乗り出したわけです。同じ年の十一月に研究班の第一回報告会を開きまして、当初疑われていた伝染病の疑いは否定され、それに代わってある種の重金属中毒という可能性がクローズアップされ、しかも水俣湾の魚介類を介して中毒が起きている可能性が高いと指摘されました。一方、当時、チッソ附属病院の院長をしておられた細川一先生は、多発地区で精力的に患者を調査して最初の臨床レポートをまとめていますけれども、この調査からも、魚の問題が浮かび上がってきたわけです。被害が集中した水俣の漁民たちは、朝昼晩と毎日大量の水俣湾の魚を食べておりました。
 さらに、翌年の一九五七年になりまして、水俣保健所長の伊藤蓮雄さんという方が、この年の四月からネコ実験を始めたわけであります。保健所の一室をネコの飼育室にしまして、そこで健康なネコ(汚染の影響のない地域から集めてきたもの)を飼いまして、そのネコに水俣湾で捕ってきた魚を毎日餌として与えるという実験を始めたわけであります。そうしましたら、次々に発症していく。早いものは十日目に、一番長いものでも四十日ぐらいで発症してしまったわけでございます。伊藤さんは後に論文を書きまして、実験に供した七匹のネコのうち五匹が発症したところで実験を打ち切り、その五例について臨床と病理の考察をしております。ネコの水俣病につきましては、さっき申し上げた細川先生が経験を積んでいましたので、伊藤所長はさっそく細川先生を呼んで、発症したネコを診てもらいましたところ、いずれも典型的な水俣病の症状だということが確認されたわけです。この実験によって、水俣湾の魚が非常に危険な状態にあり、これを食べれば、ネコと同じようにヒトも水俣病になる可能性が高いということが証明されたわけですね。
 こういう結果が出た以上、住民が水俣湾の魚を食べないようにしなければならないということになりまして、県の衛生部を中心に検討した結果、漁業補償なしで漁獲を禁止する方法として食品衛生法の適用を思いつくわけであります。食品衛生法に四条二号という条文があります。そこには、こう書いてあります。まず、本文に「左に掲げる食品又は添加物は、これを販売し、又は販売の用に供するために、採取し、製造し、加工し、使用し、調理し、貯蔵し、若しくは陳列してはならない」とありまして、その二号には、「有毒な、又は有害な物質が含まれ、又は付着しているもの。但し、人の健康を害う虞がない場合として厚生大臣が定める場合においては、この限りでない」と定めてあります(改正前の条文)。なお、現行の四条二号には「又はこれらの疑いがあるもの」という文言が付加されていますけれども、一九五七年当時はこの文言はありません。
 当時熊本県が考えたことは、食品衛生法四条二号にもとづいて、水俣湾の魚は有毒化しているので、これを食べてたり、採ったりしてはならないということを知事の名で告示するというものでした。食品衛生法という法律にもとづいて警告を発し、水俣湾の魚介類の危険性を住民に周知徹底しようと考えたわけであります。ところが食品衛生法は国の法律であり、主務官庁は厚生省であります。そこで熊本県は、告示を出すまえに一度厚生省の見解を聞いてみる必要があるということになりまして、県としては食品衛生法四条二号より知事の告示を出したいと思うが、出してよろしいかという照会をしたわけであります。それに対して、一九五七年九月十一日に、当時の厚生省公衆衛生局長が回答してきたわけですが、それは次のようなものでした。
 「水俣湾の魚介類のすべてが有毒化しているという明らかな根拠が認められないので、水俣湾で捕獲された魚介類のすべてに対して食品衛生法第四条第二号を適用することはできないものと考える」と。つまり、県が考えていた知事告示は出してはならない、そういう回答であったわけであります。その結果、県はこれをとりやめて、保健所を通しての健康指導に切り換えたわけであります。しかし、その後の被害拡大の事実が示しているように、その程度の防止策ではきわめて不十分であったことは明らかであります。
 ところで、食品衛生法は適用できないという考え方は、はたして妥当であったかどうか、そういう問題を水俣病国家賠償訴訟は提起しているわけであります。
 
 水俣病がどういうメカニズムで発生するかというのは、今日では中学生や高校生でも、多分、分かっているのではないかと思います。原因物質はメチル水銀であり、チッソ水俣工場のアセトアルデヒド製造工程で生成されまして、それが排水となって水俣湾や不知火海に流され、まず海水を汚染し、海に住む生物、プランクトンや貝類、あるいはカニ、エビ、タコの類、さらに小型の魚から大型の魚まで次々に汚染しまして、最終的には、そうした汚染魚介類を採って食べた主として漁民家族に水俣病を引き起こしたわけであります。工場から排出されたメチル水銀は大量の海水で希釈されて、当時の分析技術では分析限界を越えてしまうほど薄まってしまいます。ところが、プランクトンから魚へと食物連鎖が進むにつれて魚の体内にしだいに濃縮されたメチル水銀がたまっていく仕組みになっているわけです。食物連鎖の一番頂点にくるのが人間ですから、人間に一番濃厚な水銀が取り込まれるという仕組みになっているわけです。そういうふうに、まず、チッソの製造工程から出てきた毒物が海中の食物連鎖を媒介にしながら、最終的にネコやヒトに水俣病を発生させるというメカニズムになっているわけであります。
 当時の最大の課題は、水俣病被害の拡大をどうやってくい止めるかということでした。一番いいのは、工場から原因物質である毒物を出さないことです。しかし、当時はまだそれがメチル水銀であるということが分かっておりませんし、チッソ自身もどんどん生産を拡大していた時期ですから、簡単には排水停止に応じる気配はない。もちろん、排水を止めることは通産省も反対だったわけですね。それでは、次の手段としてどうすればよかったかというと、問題は魚なんです。水銀に汚染された魚(当時はまだ水銀はクローズアップしていなかったい時期ですけれども)、毒物に汚染された湾内の魚を食べさえしなければ因果関係の鎖はここで切れてしまうわけです。だから、因果関係というのは、最初の原因から最終的な結果まで数珠つなぎになっているんですね。一本の糸のように連なる因果の環のどこを切っても毒物は人間に到達することはないんです。
 現代の疫学では、「曝露」(exposure)という概念を使います。メチル水銀曝露というのは、ヒトがメチル水銀にさらされるという意味です。メチル水銀にさらされてその影響を受けることを曝露といいます。要は、その曝露をなくしさえすればよいので、そうすれば水俣病にかからずにすむわけですね。そのためには、因果関係の連鎖をどこかで切断すればよいわけです。これはだれでも理解できる理屈です。ところがですね、当時はそういうふうには考えていないんです。いまから考えると非常に不思議なんですけれども、こういう単純なことが分かっていないというか、あるいは分かろうとしなかったんですね。 むしろ焦点になったのは、水俣病を引き起こした毒物は何かという問題でした。これは最終的にはメチル水銀ということになったわけですけれども、水俣病事件の経過をみると、研究班が総力をあげて調査した結果、三年かかってようやく原因物質を割り出すことができたわけであります。しかも、このメチル水銀が水俣工場から流出したことを明らかにするのにさらに三年かかっているんです。因果関係の大筋を解明するのに合計六年もかかっています。その間に被害はどんどん拡大していったわけですね。
 しかし、当時は水俣病を引き起こす毒物は何かということに議論が集中しておりまして、それを解明しないことには対策は立てられないという考え方が支配的でした。しかし、こういう考え方は基本的におかしいですね。さきほどもいいましたように、一連の因果関係のどこかを切断すれば、被害の拡大は確実にくい止められるわけであります。ところが、当時は原因物質にばかり目がいきまして、それを解明しないことには抜本的な対策は立てられないということであったわけであります。
 岡山大学医学部に津田敏秀先生という衛生学(環境疫学)の専門家がおりますが、この方が最近興味深い指摘をしております。ふつう水俣病の原因は何かと聞きますと、メチル水銀とか有機水銀という答えが返ってきます。水俣病の原因はメチル水銀以外にはありえない、つまり、論理的には水俣病の原因はたった一つしか存在しないと考えられておりまして、それが常識のようになっているわけですね。ところが、岡山大学の津田さんの考えは違っておりまして、水俣病の原因を一つに限る必要はない、水俣病の原因は二つあっても三つあってもよいというわけです。要するに、最終的に人間に水俣病を発生させないことが重要であって、そのためには因果関係のどこをたたけばよいのか、たたく対象がすべて原因と考えてよいんだというわけです。大半の人たちは水俣病の原因はメチル水銀しかないと固定的に考えているけれども、水俣湾の有毒化した魚そのものが原因なんだという考え方も十分成り立つわけです。さきほどの曝露の理論からいっても、汚染魚さえ食べなければ人間は毒物にさらされることはないし、発症の危険性はないわけです。したがって、メチル水銀と並んで水俣湾の魚も水俣病の原因と考えるべきであり、それをいかに食べさせないようにするか、そこに対策の重点を置くべきであった。そうすれば、これほどひどい被害にはならなかったであろうと津田さんはいっているわけであります。
 しかし、そういう考え方はまだまだ一般的ではないんです。食品衛生法の適用が可能かどうかは、国家賠償訴訟において繰り返し議論されてきましたけれども、だれもが水俣病の原因はメチル水銀なんだというふうに考えているわけであります。それを当然の前提として、メチル水銀が原因だということがいつ確定したのか、また、メチル水銀がチッソ水俣工場から流出しているということがいつ突き止められたのかということが議論の焦点になってしまうわけですね。そうすると、いま問題にしている一九五七年の夏頃には原因物質についてはなにも分かってなかったから、食品衛生法を適用することもできなかったんだということになる。そのように国側は主張し、いくつかの裁判所の判決も同様のことをいってきたわけです。しかし、これは根本的におかしいですね。
 厚生省の回答をもう一度見てみましょう。一九五七年当時、水俣湾の魚介類のすべてが有毒化しているという明らかな根拠が認められないから食品衛生法を適用することはできないと書いてあります。みなさんのなかには、水俣湾にいってみられた方もいらっしゃると思いますが、地図で見ると小さな湾ですけれども、実際に行ってみるとやっぱり広い海ですよね。しかも、閉じられた湾ではなく、魚がたえず不知火海との間を行き来しているわけですよ。あそこはもともと非常に魚の豊富なところでありまして、不知火海の中では、水俣湾内とその地先の海が最もよい漁場だったんですね。ですから、大きな魚から小さな貝類にいたるまでいろいろな魚介類が生息していたわけであります。その水俣湾に生息する魚介類のすべてが有毒化しているという明らかな証拠をどうやって見つけますか。いったい、そんなことはできますか。何万、何十万という数の魚を採ってきて、厚生省のいう通りに、次々に有毒化しているかどうか調べていく。採っても採っても、不知火海から魚が入ってきますから、それをまた採って検査する。いつになったらこの作業は終わりますか。そうしなければ、湾内の魚のすべてが有毒化しているという明らかな証拠は挙げられないでしょう。そして、そういう証拠が出せないなら、食品衛生法四条二号の適用はできないというのが当時の厚生省の論理です。これはある意味では不可能を要求しているんです。私が思うに、厚生省は食品衛生法を適用したくなかったのであり、そのためにこういう理屈を考え出したとしか考えられないわけであります。この回答のもつ不合理さは、厚生省の役人も知らないはずがないと思います。それほど無知であったとは思いません。むしろ法律の適用をしたくないばかりに、意図的にこういう作文をしたと思わざるを得ないわけですけれども、まさにこういう考え方が水俣病の被害を拡大させた大きな原因になったわけです。
 
 
 被害の拡大防止と法治主義の問題
 最後にもう一つ、法治主義の問題を取り上げてお話したいと思います。
 水俣病が最初に発見された当時は、患者の数も五十人程度でした。一九五六年十二月末現在でその程度ですね。第一次訴訟が提起された一九六九年六月当時でも、認定患者の数はまだ百二十人足らずです。現在どうなっているかといいますと、認定患者の数は二千三百人ぐらいになっておりまして、その後約二十倍近く増えていることになります。これで患者のすべてかというと、必ずしもそうとはいえないんです。ご存知かもしれませんけれども、一九九五年に政府が「水俣病問題の最終的かつ全面的解決」と称してひとつの解決策を未認定患者に提示し、それを大半の患者団体が受け入れた結果として、政治決着が実現したわけであります。その時に救済の対象となった未認定患者が一万三百人ぐらいいるわけです。国・県はこれを水俣病患者とは認めていないんですけれども、この人たちも水俣病患者であるということは、いずれ医学的にもはっきりすると思いますし、そうなるのは時間の問題だろうと考えております。したがって、私はこの人たちも全員水俣病の被害者と考えてよいと思っております。この人たちを含めると、現在確認されている水俣病の被害者は一万二千六百人ぐらいですね。しかし、これが被害者のすべてではありません。認定制度は本人申請主義をとっていますので、自分は水俣病だから認定して下さいと患者本人が県知事に申請しない限り認定されないという仕組みです。ところが、いろいろな事情で認定申請したくない、あるいはしようと思ってもできないという人たちがいますし、また、相当重症の患者であっても未認定のまま亡くなった人たちも少なくないんです。その意味では、水俣病患者の数は、じつは未確定なんですよ。全体として、チッソはどれほどの被害者を生み出したかということは、現在でもはっきり申し上げられない状況にあります。
 しかしながら、少なく見積もっても一万二千人以上の被害者は出ているわけですね。これは、ひとつの化学工場が出した排水の被害としては、想像を絶するほどの大きさですし、世界中どこをさがしても、これほどひどい化学公害事件はほかにありません。これも、一九五六年五月に水俣病の発生が公式に確認された当時、すでにこれほどにひどい状況にあったのかというと、決してそうではないのでありまして、むしろ水俣病の発見後に被害はどんどん広がっていったわけですね。その結果、最終的には一万三千人ぐらいの膨大な被害者数に達したというのが実情なんです。こうなるのは、いわば必然の道のりであったのか、いろいろ手を尽したすえに、結果としてこれだけの被害者を出さざるを得なかったのかというと、それは決してそうではないわけであります。被害をくい止めるべき人間(これは具体的にはチッソであり、行政なんですけれども)そういう人たちが被害の拡大をくい止めるために、その時々において有効な対策あるいは抜本的な対策をとってこなかったということ、その結果がこういう膨大な被害者の数になっているんですね。そして、まさにこの点に、法治主義の問題が関係しているわけです。
 水俣病国家賠償訴訟においては、国の責任、とくに被害の拡大を放置した行政の責任がするどく問われたわけであります。国や行政の責任はいかなる責任かというと、被害の拡大をくい止めるためになすべきことを何もしないで見過ごした責任なんですよ。法律的には、何もしないことを不作為といいます。水俣病に対する行政の責任というのは不作為責任として追及されてきたわけです。けれども、法律上、国家賠償責任があるというためには、いろいろ厄介な問題が発生します。まず、行政は水俣病のような健康被害をくいとめるために、通常、種々の規制権限を与えられているわけです。もう一つの有効な手段は行政指導ですね。こうしたものを行使すべき義務、それを作為義務といいます。こういう作為義務が発生しており、しかも義務に違反して何もしなかったときにはじめて不作為責任が成立するわけです。論理構造がけっこう複雑なんですね。そのためには、まず、具体的な法律で規制権限が定められていなければならないんです。しかも、ある具体的な状況のもとで規制権限を行使すべき作為義務が発生していて、しかもその義務に違反して何もしなかったということを主張立証しなければ、裁判上、行政の責任は認められないんです。
 水俣病の裁判でまず真っ先に出てきたのは、水俣病の被害の拡大をくい止めるために行使できるような規制権限が当時行政に与えられていたかどうか、という問題だったわけです。これは要するに、一九五〇年代の日本にそういう法律があったかどうかという問題であります。いま六法全書を開きますと、公害・環境関係の法律がたくさん出てきます。環境法の体系的整備という点では、日本はいまや世界で最も進んだ国の一つであります。しかし、そうなるのは、一九七〇年以降のことなんですね。各地の公害被害者が提起した裁判がきっかけになって、一九六〇年代後半から公害反対の国民世論が非常に盛り上がりました。それを背景に、一九七〇年に「公害国会」というものが開かれて、一挙に十四の公害関係の法律を作ったんです。それが土台になって現在の非常に整備された環境法の体系が作り上げられたんです。一九七〇年以前は、たいへんお寒い状況でした。とくに一九五〇年代の公害・環境法となると、何もないにひとしい状況なんですね。唯一できたのが、一九五八年一二月に制定され、翌年三月から施行された水質二法といわれる法律です。これが戦後最初の公害立法なんです。立法の契機になったのが本州製紙江戸川工場事件です。これは、東京のお膝元で起きた漁民騒動でありまして大きな政治問題になった事件です。製紙工場が汚い排水を無処理で海にたれ流したために魚が捕れなくなり、生活に窮した浦安の漁民が大挙して工場に乱入したという事件です。はじめ漁民は、もっと穏やかに何度も工場に対して排水の処理をしてくれと申し入れたんですが、工場が対策を怠ったため、工場に乗り込んでいってその辺の物をぶち壊して歩いたというのが江戸川工場事件あるいは浦安事件と呼ばれるものなんです。
 浦安事件をみて、ようやく工場排水による水質汚濁を何とかしなければならないというんで作られたのが水質二法なんです。戦後、経済復興をなしとげて、一九五六年ぐらいから高度成長が始まり、そして経済大国への道を突っ走るわけですけれども、その結果、次々に環境も破壊されていく。野放しの工業振興だけではいけないというんで、一九四九年(一九四九年というのは戦後かなり早い時期ですね)、当時の経済安定本部から、水質保全のための法律を早急に制定すべきであるという提言が出ています。一方で、そういう汚染の監視を続けながら、経済の復興あるいは工業化を進めていくべきだという提案がなされているわけなんです。ところが、これは実現しなかったんです。ずっと懸案事項として先送りされてきたわけですが、浦安の漁民が実力行動に出て工場になだれ込むという事件がきっかけになって、ようやく水質二法の法案を経済企画庁と通産省が作るわけであります。これが一九五〇年代の唯一の公害法でありまして、一九五七年には、これもまだできていないんですね。一九五八年末まで直接公害規制を目的とした法律は一つもないわけです。
 さて、水俣の問題に返りますと、水俣湾から不知火海へと汚染海域が広がり、そこで捕れた魚を食べた人たちが次々に発症していくという事態が目の前で進行していたわけですね。これは文字通り緊急事態でありまして、一刻も早く対策を講じなければ被害はますます広がるばかりです。しかしながら、規制する法律がないというわけなんですね。たとえば、漁業法をみても、こういう場合に漁獲を禁止できるという規定が見当たらない。水質二法とは水質保全法と工場排水規制法の二つを指すんですが、これができるまでは工場排水を直接規制する法律はなかったんです。
 そこで、こういう問題が発生したわけなんです。日本は法治国家ですから、法律の根拠もないのに国民の権利や自由をむやみに制限することはできないという問題です。これが法治主義という考え方なんですね。たしかに、これは近代国家の大原則とされておりまして、行政は権力を濫用し法律の根拠なしに国民の権利自由を制限したり規制してはならないわけであります。そういう原則を持ち出して、当時の行政が被害の拡大をくい止めることができなかったのは、やむを得なかったんだ。したがって、厚生省や通産省には不作為の責任はないという議論がで出てくるわけであります。
 しかし、ほんとうにそういえるのかというのが水俣病事件が提起した問題です。たとえば、みなさんの目の前でひとりの子どもが水に溺れようとしているとしますね。しかも、みなさんには子ども救うべき法律上の権限は与えられていなかったとします。そういう場合には、私には権限がありませんから、といってみすみす子ども水に溺れて死んでいくのを見ていなければならないのか。それとも、法律上の権限はなくても水に飛び込んで子どもを救うことが大切ではないか。そういうことがじつは水俣病の裁判で問われてきたわけですよね。これまでに出た判決の大半は、やはり法治主義の原則にこだわって、当時は具体的な規制権限を定めた法律がない以上、被害の拡大防止のために有効な対策がとれなかったとしても、それはやむを得ないんだということになっているのであります。しかし、そういう国家とはいったい何者でしょうか。われわれは高い税金を払い、何のために国家を作っているんですか。ひとつは、犯罪を防止し治安を維持してもらうためでしょう。それから、もうひとつは、国民の生命と健康を守り、福祉を増進するためでしょう。そのために、われわれは国家を作り、維持しているのではありませんか。その国家が、立法を怠り、いま適当な法律がないからといって国民の生命と健康を守ることができないというのでは、国家が本来の任務を果たしているとはいえないと思うんですよ。そういう根本的な問題を水俣病の裁判は提起しているわけであります。現代の法律学がこの問題にきちんと答えを出すのは非常に困難であります。困難ではありますけれども、この問いを避けて通ることはできないと思うし、それは許されないと私は思うんです。
 
 以上三つの問題をとり上げまして、水俣病事件、とくに水俣病の裁判が私たちに何を問いかけ、どのような問題を提起してきたのか、ということをお話したわけであります。これはもちろん法律の専門家だけが受け止めるべき問いではなく、すべての国民に提出された問題でもあると思うんです。その意味で、これは私たちが自分の問題として真剣に受け止めて考えていく必要があるのではないかと思います。
 
 
 「越境者」としての三十年
 そろそろ時間になりましたので、最後に一言申し上げてこの講義を終わりにしたいと思います。私は、さきほどの学部長の紹介にもありましたように、熊本大学法学部におきましては民事訴訟法という科目を担当しております。この地で水俣病事件に出会い、調査や研究に取り組むようになったわけでありますけれども、じつは私の専門である民事訴訟法の視点から仕事をする余地はあまりなかったんです。たとえば公害企業の過失の問題は、民事訴訟法の問題ではなくて民法の不法行為の領域に入るわけです。国家賠償の問題は伝統的に行政法の分野ということになっていますし、まして刑事法の問題は、これは刑法と刑事訴訟法の問題になるわけでして、私はそういう異分野に次から次と首を突っ込んできたわけです。しかも、水俣病の問題は医学や化学技術にも関わっていますから、私の三十年の歩みは、本来の専門分野である民事訴訟法からますます脱線していく歩みでありまして、あえて「越境」という言葉を使わせてもらえば、まさに越境者の道であったともいえるわけであります。これは、大学という専門家集団の中では、いったい何が専門か分からないような歩み方ですよね。熊本大学法学部の末席を汚して、この三十数年、民事訴訟法を講義してきたわけですけれども、民事訴訟法学者としては本来の仕事をあまりしていないという忸怩たる思いがあります。このことについては、ある時期まで非常に悩んでおりました。しかし、次から次に起きた水俣病の裁判からたえず新しい問題が提起されてきまして、それを避けて通るわけにはいかなかったというのが正直なところです。その結果、当初はまったく予想もしなかった世界へと飛び出してしまったというのが、いま三十年をふり返っての実感であります。
 なぜこうなったかといいますと、水俣病のような公害・環境問題、これはいまやさらにグローバル化していますが、そういう現代的な問題に対して、大学の講座制とか狭く限定された専門分野は、もはやマッチしなくなってきているということだと思うんです。たとえば、私が自分の専門分野をかたく守っている限り、水俣病問題には到底取り組めないということになると思うんです。これは、環境問題を含めて、いま発生している様々な問題あるいは二十一世紀に発生するであろう種々の問題に対して、現在の細分化した学問分野では対応できないということなんです。そういうことをこの三十年間ずっと悩みつつ考えてきたわけであります。民事訴訟法でメシを食わせてもらいながら、だんだん別の方向にずれていくというのは、個人的にはそう簡単に割り切れるものではありませんが、ある時期から腹をくくって水俣病研究をやってきたわけであります。この問題は、今後、研究体制の組み方や研究成果の評価の仕方を含めて、大学の研究者が真剣に考えていかなければならない問題ではないかということを申し上げまして、私の最終講義の結びといたします。ご静聴ありがとうございました。
(1999年2月22日)