富樫貞夫教授のこと


このページは、私がのんべんだらりと水俣について書き綴っているのですが、幸い皆様からはご好評(ご温情?)を頂いているようでございます。
ただ、私としてもより高みを目指そう、より良いものを読んでいただこうという企業努力は決して欠かしているわけではございません。
しかし悲しいかな私の能力は限られております。
そこで、です。
水俣病研究にこの方ありと言われる、御大中の御大・富樫貞夫教授にご登場願えることになりました。

富樫教授は長らく熊本大学法学部に勤められ、一貫して水俣病事件に関わってこられました。
水俣病患者がチッソの責任を問う最初の裁判を起こしたとき、その法律論的支柱を形成したのが富樫教授です。
いまでこそ、公害を出した企業が責任を問われるのは当たり前ですが、当時は公害と言う言葉も概念もできたばかり。公害=水俣病だったわけですから。チッソをどういう罪状で告発するのか、そこから考え出さねばならなかったのです。
富樫教授は患者らと議論し、試行錯誤を重ね、数多くの準備書面を書き上げました。
まさにこの活動なかりせば今の日本の公害行政はなかったといえるでしょう。
その後も、このページの第一回目で紹介した「水俣病研究会」を結成、水俣病運動がさまざまな試練を迎えるたび、確固たる論理と信念で患者たちを支えつづけてきました。
96年には25年がかりの労作「水俣病事件資料集」を会として発刊、毎日出版文化賞を受賞しました。
この資料集は水俣病事件の膨大な資料を吟味精査してまとめたもので、1700ページ・重さ七キロの大作です(いや、重けりゃいいってわけじゃないですよ、もちろん)。
これまでの準備書面や論文をまとめた「水俣病事件と法」(石風社刊)は富樫教授の思想のエッセンスにあふれた論文集ですが、この本がそこらの論文集と決定的に違うのは、行間に漂う詩的な優しさです。この優しさがチッソや国に向かうとき、研ぎ澄まされた剃刀に変化するダイナミズムに圧倒されます。こんなに美しい準備書面の文章が存在するなんて、驚きです。私、この本のいくつかの章を妻と音読して「楽しみ」ました。
一方で富樫教授は時々こう言います。
「僕はね、水俣病が専門じゃないんだ。もっとやることがあるんだ」
富樫教授は本来「ナチとドイツの法律」が専門なのです。
水俣病事件の裁判に追われながらも、こちらの研究はずっと進められていたようで、ユダヤ人虐殺を静かに追った知る人ぞ知るドキュメンタリー映画「ショアー」の上映を熊本市で実現させる活動にも取り組みました。この一件は私にとっても大層「楽しい」経験でしたので、また機会を改めてご紹介させていただくことにします。
さて、そのような富樫教授は、学生に対しても、水俣病の取材に訪れるマスコミに対しても大変厳しい姿勢で接しています。「勉強するのが仕事なんだからちゃんと勉強してからこい」という当然の原理原則が忘れ去れているようでは、そもそも水俣を語る資格がないというものです。
私も富樫教授の元をはじめて訪れたときはガツンとやられたものでした。

さて、その富樫教授、現在は熊本大学を定年で退官され、鹿児島の志学館大学で教鞭をとられていますが、今年の5月にリオデジャネイロで開かれた水銀汚染国際会議に日本を代表して環境庁や水俣市の役人を引き連れ出席されました。
その時の発表要旨と、先生の手記を頂くことができましたので、3回にわたってご紹介したいと思います。
発表要旨は英文ですので、暇を見て訳したいなと思っております(いつになることやら)。